ひととき
(昭和60年3月28日付・朝日新聞より引用)
雪がとけたら[ ]になる
小学校1年生の双子の妹ユウちゃんは、姉のマアちゃんと違って、何でもゆっくり型。テストも仕事も決して急がない。
「できないわけではないのだけれど、よいお点がもらえなくて・・・」と、いつも頭をかかえている義妹がある日、こんな話をした。「ユウちゃんのこの答えには、文句が言えませんでしたよ」。見せてくれたのは理科のテスト。
「雪がとけたら[ ]になるでしょう」
[ ]の中には、はみ出さんばかりに「春」と書かれているのです。思わず「すばらしい答えじゃないの」と言ったものの、そこには赤い斜線が右から左に冷たく引かれているだけなのです。「一言何かほしいわねえ」と私。二日も三日も雪に降りつめられて、「早く春が来るといいなあ」というユウちゃんの思いが、いっぱいに伝わってくるような「春」の字なのに・・・。
本の好きなユウちゃんは、雪の下でじっと春を待っている山の動物や、冷たい北風に震えながら春を待っている草木のことを、きっと思い出していたのでしょう。「先生には何も伝わらなかったのかしら」とちょっと寂しい気がしました。「水」と書いて、大きな丸をもらったマアちゃん。春への期待に夢をふくらませたユウちゃんには、丸はなくても、温かい言葉を一言そえてほしい、と思いました。
小さな子どもは、ほめてもらえることが大きな自信につながるのです。一人ひとりのよい個性がうまく育つかどうかは、教える側のちょっとした心遣いが基になるのではないでしょうか。雪もすっかりとけ、四月からはいよいよ二年生になるマアちゃんとユウちゃん。それぞれの良いところを十分に伸ばしながら、二人それって大きくなってほしいと願っています。先月、北陸の郷里に帰った時の出来事でした。
(静岡県富士市 W.M・主婦・56歳)(原文は実名)
皆さんは、ここに掲載しました新聞の切り抜き(朝日新聞・昭和60年3月28日付)「ひととき」および「カリール・ギブランの詩」をご覧になって、どのような感想をおもちになったでしょうか。
私たちは、”教育とは本来こうあるべきなのでは?”といった鋭くかつ奥の深い問題を提起しているように受けとめたのですが、如何でしょう。
すなわち、ほんとうの教育は、教える側が教えられる側の立場に完全に立った時、はじめて成り立つということです。このような関係が成り立っている限り、「落ちこぼし」や「いじめ」や「体罰」などは、まず存在しないと言ってもいいでしょう。
あなたの子どもはあなたのこどもではない
かれらは人生の希望そのものの息子であり娘である
かれらはあなたを通ってはくるがあなたから来たものではない
そしてかれらはあなたとともにいてもあなたに属してはいない
あなたはかれらに愛を与えてよいが考えをおしつけてはいけない
かれらにはかれらの考えがあるのだから
あなたはかれらの体を家にいれてもよいが
かれらをそこに閉じ込めてはいけない
かれらの心は親の夢想だもできない明日の家に住んでいるのだから
あなたがかれらのようになろうとするのはよいが
かれらをあなたと同じ人間に育てようとしてはいけない
時は決して後戻りはしないし足ぶみさえもしていないからだ
あなたは弓であり あなたの子はそこから送り出される生きた矢である
(カリール・キブラン)