ここでは一般的な意味でのいわゆる学習塾を取り上げることにする。それゆえ、予備校や教材販売会社、通信添削会社、模擬テスト会社など、塾以外のいわゆる民間教育産業については別のものとして後で取り上げることにする。
さて、学習塾と言っても規模、存立形態、内容等さまざまであり、一口に把握することはできない。

 

2-1 学習塾の中身概観

規模による分類として、小規模塾(塾生二百人未満)、中規模塾(塾生三千人未満)、大規模塾(塾生三千人以上)にわけられる。
存立の形態としては、個人立、会社立、上場企業会社立などがある。
指導の形態では、集団指導型と個別指導型、家庭教師派遣型、通信添削型などがあり、最近は個別指導型の増加が著しい。また、通信添削型は巨大な民間教育産業三社がほぼ独占している。
指導の方法については、人が教えると言う従来のスタイルだけでなく、最近はコンピュータ機器などを使っての機械による教授法が増加している。
授業内容に関しては、学校の教科書の予習・復習であり(ダブルスクール)、ただ受験を前提としているかどうかで難易度の違いがあるだけである。それゆえに、一口でいえば授業内容の画一化がますます進行しつつある。教育機器の進化発達がそれを助長している。つまり、公教育とは異なる塾独自の教育(塾教育)は行われていないのである。全てが受験勉強に収斂される日本の教育風土の結果であろう。

 

2-2 変化する学習塾~社会の変化と教育改革の流れの中で

1)臨教審の答申と経済会の教育構想

1984年、当時の中曽根康弘首相の主導で「臨時教育審議会」が設置され、そこで「教育の自由化」が議論され、「個性の重視・育成」がスローガンに掲げられ、「教育の個性化」が提案された。これを契機に1989年から2000年にかけての十年間は、参考資料に掲げたとおり、経済界のすさまじい反応が起きた時期であった。そのキーワードは、「個性」・「自由」・「選択」・「責任」である。これが今日の日本の教育政策の根底をなしているといってよい。
特に衝撃を与えたのが1995年に経済同友会が打ち出した「学校から『合校(がっこう)』へ」構想であり、さらに2000年1月に「21世紀日本の構想」懇談会(小渕首相の諮問機関)の「現在の義務教育の教科内容を5分の3にまで圧縮し、義務教育週三日制を目指す」という提言であった。ここには「提案したいのは、週七日のうちの半分以上、すなわち少年期の半分以上を生徒と親の自由選択、自己責任に委ねてみようということである。」とある。

2)「ゆとり教育」への評価について

ただし、これらの経緯を理解するにはかなりの労力を必要とする。
すなわち、先ず「個性の尊重」というキャッチフレーズは、これまで批判されてきた詰め込み教育とか画一的教育(これが落ちこぼしを生み、いじめを発生させる源とされてきた)という傾向に対する対応策という風に受け止められた。そして、その具体策として「学校週五日制」への移行と「教科内容の削減」が打ち出され、いわゆる「ゆとり教育」と呼ばれるようになった。
これらは当初は好意的に受け止められていたが、やがて二つの潮流に反撃されることになった。一つは、ゆとり教育は学力の低下を招くという批判で、当初は理系の学者が中心となっていたが、やがて小中生を持つ親たちの不安が広がり、そこから学習塾通いの増加と私立学校を受験するという流れが急速にできていった。と同時に、学習塾と私学は一体になって「公立学校」バッシングを始めた。
もう一つは、理論的な側面が高いのであるが、「個性の尊重」というものの中身の実態についてである。「できない」のも個性だという有名な言葉が生まれたりしたが、このことが一端を明確に表現しているように、これは国家の公教育からの縮小を意味し、国家は教育に対しては最低限の関与に留め(教育予算の削減が狙い)、後は国民の自己責任(教育の自由化・規制緩和を通じての民間教育産業の育成)でどうぞというものである(新自由主義の思想→結果としての教育の私事化の助長)。
具体的に出されたのが先に述べた「学校週五日制」であり「教科内容の削減」であった。その結果生じてきたのが所得格差・階層格差に伴う学力の二極化である。すなわち、経済に余裕のある家庭や文化度の高い家庭は、ゆとりの時間を親子で上手に使うことができる。お稽古事や塾通い、図書館や美術館や博物館などへ行ける。しかし、それらの余裕のない家庭の子どもたちは野放し状態にされ、教育的環境からは程遠い状態におかれ、学力の低下へと繋がってゆくことになる。
この流れは、とうとうPISAの結果という思わぬ伏兵によって、大打撃をうけることになり、いままでの「ゆとり」をもって教育の質を上げると言う幻想は吹っ飛んでしまった。その解決策が「全国学力テスト」の復活であり、学習指導要領の見直しである。相も変らぬ目先の効果だけを狙う政策である。なぜなら、学力格差が家庭の経済格差に起因するところが大であるという現実を踏まえると、「相対的貧困率」が2009年時点で16.0%でり(OECDの2008年報告書では、加盟三十カ国の平均は10.6%)、「ひとり親」家庭の貧困率に至っては2007年時点で54.3%(OECD加盟三十カ国でも「最下位」の水準)という状態の下での学力の向上策は、先ずは国の教育費の増大を目指すべきだからである(教育予算のGDPに占める割合は、OECD平均→5.0%であるのに対し、日本→3.5%に過ぎない)。

3)「情報革命」と「少子化」の進展

国家が絡む教育政策とは別に、教育に、そして学習塾に大きな変化をもたらしてきた要因に、「情報革命」と「少子化」の進展がある。特に、臨教審以後の二十五年間の変化は著しく、インターネットと携帯電話の急速な発達はその最たるものである。
近代は人間を自由にし個人を解放した。社会や家(族)からの束縛を徐々に取り払ってきた。そこに現れるのは個人化、個別化の進展である。パソコンの世界では社会との接触が不要となり、家族全員が持つようになったケータイは家族のまとまりを解体してゆく。あくなき個別化はあらゆる物を私事化してゆく。ここに本来は消費の主体は経済力のある大人であったはずなのに、経済力のない子どもまでもが消費の主体に組み込まれてゆく契機が生まれ、すかさず商品の売り手たちはそこを目指して大攻勢をかけてくる。
このようにして、教育の自由化と相まって、教育までもが商品化され、子どもたちは教育の消費者とされ、教育における「公」の側面が薄れて、「私」の側面→私事化が進行してゆくことになる。
このような流れと、私学ブーム、そして学習塾通いは決して無縁ではない。

 

2-3 激化する学習塾間のシェア争い

少子化はあらゆる業界に暗い影を及ぼしているが、塾業界にとっても同じである。当然に子どもの獲得(塾生確保)を巡って激しいシェア争いが起きる。それは、初めのうちは塾間の生徒を巡る争いである。授業料を下げたり、時間数を増やしたり、少人数制をうたったり、最近は新しく進出する地での講習会無料や授業料の激安作戦というものまででてきている。
こういう状況の中で、大きい塾が小さい塾のシェアを奪い、中小塾の倒産や撤退が増えている。これは、塾の評価が以前のように地域に密着して地域の子どもが中心に集まる塾といったイメージが崩れ、宣伝チラシの回数や設備の具合といった表面的な要素に左右される傾向があること、さらには交通の便がよくなり駅周辺の塾への接近が容易になったことなどによるものと思われる。小さい塾が多く集まって個性のある塾長が多様な教育を行っていたころに比べると、それらが大手に取って代わられることにより塾教育が画一的なものになってゆきつつある。
が、それだけでは収まらなくなって、ついには大企業並みの他塾の買収・合併へと発展する。そこには、大手の予備校や民間教育産業と称せられる巨大な組織が絡んでいる。もうここには、旧来の牧歌的な塾のイメージは存在しない。そこにあるのは、教育をサービス=商品と捉え、子どもたちを顧客と見る経済の論理のみであり、「公」教育という概念はどこかへ押しやられている世界である。

 

2-4 私立学校と学習塾?もちつもたれつの関係・一致する利害を生かす?

1)私学ブーム

先に少し触れたが、2000年代に入ってから私学ブームが起きている。その引き金は90年代に始まった教育改革(いわゆる「ゆとり」教育)である。
このままでは分数もできない大学生が生まれるというセンセーショナルな叫びと同時に、「公立学校へわが子を通わせていたらダメになる」といった親たちの公立学校への不安感と不信感は相当なものとなり、だから私立学校へ、そのためには塾へ、という構図が強固になっていった。
少子化の進展は、塾にとっても私学にとっても生死を左右する重大事象であるがゆえに、その生き残り策を求めていた矢先の教育改革の失策であった。これを機に、従来にも増して塾と私学との連携は強まり、一体となって公立学校バッシングへと走ることになった。これはいわば、塾教育や私学教育に公立学校とは明確に異なる優れた教育実践があるからと言うわけではなく、親たちの公立学校への不安感と不信感といういわば敵失による反射的利益にほかならない。このことを特に私学は肝に銘じておくべきだろう。

2)強まる塾と私学との連携

さて、塾と私学の関係において、この十年間で大きな問題が浮上している。それは模擬テストで合否判定を行う大手塾の私学への影響力の増大である。少子化と経済不況とで私学の半数近くが定員割れを起こしている。
私学経営はいたって苦しい現実がある。それゆえに、私学としては、何としてでも生徒が欲しい。その際頼れるのは塾のみである。
このような状況から生じてくる私学の落とし穴は、生徒獲得に乗じた大手塾の横暴な振る舞いである。それには色々な手段があるようだが、合格点以下の成績の振るわない塾生(例えば五人)と成績上位の塾生(一名)との抱き合わせ取引である。また、模擬テストにおける各学校の偏差値の操作という方法もある(ある学校の実際の合格偏差値は五十なのに、五十五とするといった具合に)。これらにまつわる逸話は事欠かないが、もう一つ例を挙げると、私立中学受験に絶大な影響力を持っている塾のトップの子息の結婚式には、二千人近い私学関係者が集まったそうだ(祝儀がどれほど集まったことかと余計な心配をしてしまう)。これだけの人数が集まると言うことは、塾から案内状が私学へ届けられているに違いない。私学としては全く関係のない個人の式典に参加するかしないかは自由であるはずだが、そこには目に見えない圧力が見え隠れしている。一種の踏み絵である。
ここまで大手進学塾の力は巨大化しているのである。塾と私学の蜜月は両刃の剣でもある。
さて、このような大手塾優位が続けば行き着くところは、私学の経営支配である。先ずは入試日への介入から始まり、授業科目への口出し、そして人事に目をつけ、ついにはトップに息のかかった民間からの者を送り込むということになる。
これはゆゆしきことで、私学と言えども公教育の一貫を担っているわけであり、公教育の崩壊を意味する。このような形でも、公教育の縮小が進んでいると言えよう。
なお、校内塾という形態も問題となる。私立学校が塾や予備校に委託して、自校の生徒の補習や受験勉強を校内の施設(または学校近くの塾)を使って行わせる形態の塾である。
ここにも公教育たる私学が民間教育産業と一体化するという公教育の縮小化現象が見受けられる。

 

2-5 行政(教育委員会・公立学校)の変身と学習塾

1)前代未聞の珍事

東京都杉並区の区立和田中学校が、学校の教室を使って夜間に大手塾の授業を行うという出来事は、塾と言う民間企業が公立学校内で営利活動を行うという前代未聞の珍事ということで、日本国中の話題を呼んだ(いわゆる「夜スぺ」問題)。当初東京都教育委員会の担当部署は、旧来のまともな学習塾観でそれを好ましくないとしていた。しかし、首脳部の意向を汲んでOKとした。
この流れは、他の区や市町村でも学校が休みの土曜日を使って高校では予備校に、小中学校では学習塾に委託して進学準備の授業や補習授業を行うという形態へと発展している。
また、貧困世帯の多い地域では、自治体が低所得家庭の生徒に塾代を補助するという方式も出現している。
さらには、東北の人口が少なく周囲に学習塾のない村などが、学力アップのために村費で塾を誘致したり、直営の塾を開設し塾から講師を派遣してもらったりする事例も見られる。

2)行政と塾の関係は変化した

このような現場の実態をどのように総括したらよいのだろうか。先ず取り上げられるべきは、行政(文科省や地方公共団体)と塾の関係の変化である。八〇年代までの塾撲滅論から、無視、放任、そして二〇〇〇年ごろからは連携へと行政は舵をきってきていることである。これは、先に二、で述べた経済界の動向に沿った変化と言うことができる。すなわち、教育の自由化の推進および教育の多様化という名の公教育の縮小、逆から見れば公教育への民間企業の参入の容認・拡大という路線である。
さらには、その背景にはますます進む個人化、個別化の中での親たち、つまり世論の教育を「私事」とする傾向の強まりがある。
これらをまとめると、学習塾・予備校(民間企業)を取り込む行政と、行政に取り込まれる学習塾・予備校という構図があり、公教育が縮小されながら「公」と「私」の境界が極めて曖昧化してゆくという現象が起きているということである。

 

2-6 マスコミの変身と塾

先に行政の変身ということを論じてきたが、もう一つ変身してきたものがある。それはマスコミである。公器といわれていたマスコミの力が弱まっていることは、新聞においては広告主と購読者への配慮からであり、テレビにおいては広告主と視聴率への配慮からである。権力に立ち向かうというよりは、経済的利益を優先するという風潮が伺える。
このような状況の中でマスコミは、世論の塾容認の流れ(それは積極的というよりは、公立学校への不満の表れという消極的なものである)、および行政の塾容認への変身という流れを受けて、社会の風潮と軌を一にするほうを選択しているといってよい。
ここで欠落しているものは何か。それは教育を論じながら公教育とは?という問いの欠落である。表面的な世間の話題となるような、例えば一月から二月へかけての私立中学受験期になれば、塾での受験特訓を面白おかしく報道するだけで、その背後に隠された多くの問題点をえぐるという姿勢は、もはや見られない。娯楽番組と同じ感覚だといってよい。受験情報は話題に取り上げるが、公立高校の課題集積高(教育困難高)などのルポはほとんど姿を消している。
最近、塾や予備校や教育企業からの新聞広告が目立つ(テレビでも大手は同様)。その収入の広告費全体に占める割合は相当なものだと思われる。これに小学生新聞が加わる。
受験産業の広告で埋め尽くされんばかりである。広告主からの反感を買うような記事は書けなくなっているのだろうか

 


 

1.はじめに

2.学習塾の現状

3.学習塾はなぜ存在しているのか

4.民間教育産業と公教育の市場化

5.学習塾から見えてくる日本の学校

6.学習塾(民間教育産業)の存在が引き起こしている課題

7.日本の教育をよりよくするに(一つの提言)