7.日本の教育をよりよくするに(一つの提言)
以上をまとめると、現在の公教育の問題点は、学力競争→公立学校への不安→学習塾(予備校)通い→私立受験→公立学校の地盤沈下、という悪循環に陥っていることである。これを断ち切る方策こそが教育改革の決め手となる。したがって、以下の三点を提言したい。

 

1)

行過ぎた進学(受験)競争を止めるためには、その頂点に位置する現在の大学入学資格を現在の入学試験制度からOECD諸国が採用している「高校(中等教育)卒業資格認定試験」へ移行させ、その資格を有する者はいつでも、どこの大学にも進学できるようにする。

 

2)

教育に家庭の格差を持ち込ませないために、就学前教育から小中高までの教育を公立学校と私立学校とを問わず授業料を無償とし、その代わり生徒の数に応じた一定額を公費負担として保障する(財政平等の原則の確立→オランダ、フィンランドの教育参照)。
それにより、憲法一四条の平等原則が貫徹され、社会や家庭内の格差が教育の格差に及ぼす影響を排除できる。

 

3)

現行の指導要領のような規制をもっと緩和し、かつ教科書検定制度を緩め、各学校の教育の自由の幅を広くして、真に自由な特色ある多様な教育を行えるようにし、また学校選択の自由を保障する。

 

4)

子どもの数が三百人以上集まれば、一定の要件の下で誰でもが私立学校の設立が可能なるようにする(→オランダの教育)。これにより学習塾も私立学校として参入が可能となり、公立と私立の特色ある多様性に富んだ内容の学校の出現が期待され、いい意味での競争が行われることになる。

 

8.終わりに

 

塾を初めとする民間教育(私教育)産業は、教育の論理ではなく、経済ないしは産業の論理で動いている(その証拠の一つが、学習塾関連の全国組織である社団法人「日本学習塾協会」や「学習塾協同組合」は、経済産業省の管轄下にあることだ)。にもかかわらず、教育という一つの言葉で括られることが多いということが、わが国の教育を論じる場合に曖昧さや混乱を招いている。それは、通常において教育を話題にする場合には、公教育も塾のような私教育も一緒の範疇であるのに対し、教育改革を問題にする場合にはそこでの教育には塾などの民間教育産業はすっぽりと抜けてしまっているからである。
もし塾などの民間教育産業を公教育と並存するものとして容認するのであれば(世論もマスコミも勿論のこと、行政までもが容認している雰囲気がある)、公教育の分野のみを改革の対象とするのではなく、民間教育産業の分野も対象に含めないと、実りある成果は生み出せないし、また公教育の方はいろいろな法的規制をかけながら、他方は野放しで自由というのでは均衡がとれないのではないか。そこにメスをいれないということは、行政(特に文科省)としては建前上塾などの民間教育産業は公教育の外に勝手に存在しているものであり、何ら公教育と関わるところはないと装っているにほかならないからだろう。
しかし、このような行政の態度は、これほどまでに学校現場外で民間教育産業の影響力が大きくなっていることとますます乖離し、公教育の縮小化とその実質的な民営化への道を開くことになるのではないだろうか。このような公教育を民営化するという確固とした理念があり、それを国民に説明するのであればそれも一つの選択であろうが、なし崩し的にそれが行われてゆくのは極めて危険なことである。
去る三月十一日の大震災と東京電力福島原子力発電所の事故は、これまでのあらゆる価値観の再考を迫っているように思われる。そこで最も問われているのがわれわれの「幸せと何か」ということである。われわれはあまりにも物質的のもに比重を置いてきたのではないか。それがあくなき経済成長路線を推し進めてきたと言えよう。地球に優しいという表現は間違っているが、地球に負荷をかけない生活を目指そうという思想は歓迎されるべきである。そして、このことの実現の鍵は教育にこそかかっていると思う。そういう意味においても、われわれ塾人も教育の一端を担うものとして、日本の教育をよりよい方へと導く流れの原動力に加わりたいものである。

 


1.はじめに

2.学習塾の現状

3.学習塾はなぜ存在しているのか

4.民間教育産業と公教育の市場化

5.学習塾から見えてくる日本の学校

6.学習塾(民間教育産業)の存在が引き起こしている課題

7.日本の教育をよりよくするに(一つの提言)