塾教育研究会(JKK)代表 皆倉宣之

依然として子どもたちや若者たちの読書離れが各方面から危惧されている。ケータイ(携帯電話)の急激な普及はますます読書の時間を奪い、より一層の読書離れを加速しつつあるように思われる。では、読書はなぜ必要なのだろうか。つまり、読書にはどのような意義があるのだろうか。
こういう状況の中で、2001年12月に「子どもの読書活動の推進に関する法律」が制定された。この法律は読書活動の意義を「子どもの読書活動は、子どもが、言葉を学び、感性を磨き、表現力を高め、創造力を豊かなものにし、人生をより深く生きる力を身に付けていく上で欠くことのできないものである」と述べている(第2条)。
他方、国語との関連から読書に触れたのが今年1月文化審議会国語部会が発表した「これからの時代に求められる国語力について―審議経過の概要―」で、そこでは「読書は、国語力を形成している<考える力>、<感じる力>、<創造する力>、<現わす力>、<国語の知識等>のいずれにもかかわり、これらの力を育てる上で中核となるものである。
また、すべての活動の基盤である<教養・価値観・感性>などを生涯を通じて身につけていくために不可欠、というより、読書なしに教養等を形成していくことはあり得ないと言えるくらいに重要なものである」と述べている。
なるほど、抽象的には子どもたちが人生をより深く生きていくのに必要な力の源となるのが読書であり、教科的にはそれは特に国語力の形成の中核となるものである、というのは間違いではない。国語力が英語や数学といった他の教科の理解に不可欠だといわれていることも再確認すべきだろう。
問題は、このような各種の審議会の答申や報告が、国をあげて実効を担保されることが少ないということである。理想は高く誰でもが納得する論ではあっても、予算等の具体的裏づけなしではあまり期待はできない。
さらに、現実には、塾や予備校のみならず学校教育の現場においてさえも、受験というファクターが加わって受験のための読書の勧めが横行しがちで、なかなか本来の意味での子どもたちの読書を指導できない。そのことが逆に子どもたちの読書嫌いを引き起こしているのは、実に悲しいことである。

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