以前は学習塾は公教育の阻害者として、或いは児童生徒の過度の塾通いが引き起こすであろう健康への危惧から、行政や学校、マスコミから非難の対象であったが、いまやその風向きはほぼ変わった。したがって、自由主義経済の下での活動には原則として制約はなく、それゆえに負の側面も直接には表面化していないようだ。しかしながら、社会が学習塾を容認すればするほどそれに伴う責任が間接的には強まることを自覚すべきである。
では、いかなる課題があるだろうか。以下この問題を取り上げてみたい。
1)
先ずは、実態としての学校と塾という「ダブルスクール」の持つ意味についてである。
私が所属する塾教育研究会(JKK)は、昨年五月にカナダのUBCアジア研究所・副所長,准教授のジュリアン・ディルケス氏をお招きして「外国の教育社会学者が見た日本の学習塾」というシンポジウムを行った。このテーマは教育学者やマスコミ関係者にも大きなインパクトを与えたが、氏の五年間に及ぶ日本の塾の実態は「学校と何ら変わらない」であった。すなわち、昼間学校で勉強したことを夜塾でまた勉強する、というのが塾の実態だということである。
氏が日本の塾研究をしようとしたその目的は(カナダ政府の公的資金援助を得てまで)、日本の驚くべき経済成長の背景には必ずや教育の力があるに違いないく、その教育の力を形成しているのが公教育(学校)と共存していながら、しかしそれとは異なる多様性に富んだ「塾教育」ではないのか、それが経済成長の一端を担っているに違いない、と想像したからである。
ところが、関西から東北までの五十余の塾を丹念に回った結果得た結論が、先に述べた学校と何ら変わらない教育であり、その教育内容は画一的であるということでであった。
2)
ここからみえてくる課題は、先ず、生徒(=塾生)を中心にして考えたらどのようになるかと言うことである。この課題は、塾の存在に慣れっこになっているわれわれ日本人からはなかなか提起されないが、外国人からは度々指摘されるものである。
一つは、なぜ同じ生徒が学校と塾の双方に通って同じ内容の授業を受けなければならないのか、という疑問である。つまりダブルスクールが生徒たちに与えているメリットとデメリットについて、何ならかの説明或いは根拠を提起すべきではなのかということである。ニーズがあるからといえばそれまでだが、第一の答弁者は文部当局だろうが、塾が教育者を自認するのであれば第二の答弁者としてでていくべきだろう。
もう一つは、ダブルスクールを容認するのであれば、なぜ塾と学校が連携しないのかという疑問が投げかけられている。塾や学校の立場ではなく、生徒の立場から考えた場合、両者の連携はより優れた教育効果をもたらすと思われる。双方の課題である。
3)
次に、塾を中心に考えた場合どうなるかである。先ほどから述べてきたように、塾へのニーズの主たる理由が親たちの公教育への不安と不満であるとすれば、塾は公教育に対してどのような姿勢を持つべきかという点である。このままの方が塾にとって利益があるから今のままにしておいた方がいいという考えに立つのか、いや塾には公教育とは異なる独自の塾教育が存在しそれを追求するのだという考えに立つのか、という問いである。
しかし、後者は理想的ではあるが、現在のニーズ論からすれば、成り立ち得ない考えに違いない。それは、経済的利益を得るために年々株式会社化してゆく塾が増えていることや、塾は公教育の隙間に入り込み利益を追求する「隙間教育産業」であるという性格からも導かれる結論である。
とはいえ、ニーズに甘えていてよいのかは疑問である。もっと塾教育を多様性に富んだものにできないだろうか。教育改革への積極的発言を通じて、塾が改革の主役となるべきではないか。もちろん、改革が成功すれば塾へのニーズは消滅する。われわれの経営は成り立たなくなる可能性がでてくる。しかし、そのような目先の利益にとらわれることなく、日本の教育政策を根本から変える案を用意すればよい。すなわち、塾が学校となるような改革案である。オランダでは、三百人の生徒を集めれば私立学校の設立が可能である。そこでは公立、私立を問わず生徒一人当たり同額の予算が生徒の人数に応じて国家から支給される。その予算内で各学校は工夫した特色あるすばらしい教育を行っている。だから、家庭の経済状態により教育格差の生じる余地がない。このような受験競争にとらわれない教育を夢見ることはどうだろうか。
〔注〕中曽根臨教審が発足した一九八四年に当時の大蔵省が中心となって学者や若手官僚を集めて「ソフトノミックス・シリーズ(全三十七巻)」を発刊した。それは、いまやこれまでのハードな社会からソフトな社会(サービスや情報を重視する社会)へ移行する転換点にあると位置づけ、そのためには経済の自由化と競争原理の導入、ならびに財政的に小さな政府を志向するために、あらゆる分野の検証とこれからの予測をおこなったシリーズである。「隙間教育産業」という言葉は、このシリーズの第七巻『第一部 構造変化の分析ー七 《ソフト化社会の家庭・文化・教育》』の中で用いられている。
4)
次に、経済的弱者との関わりについてである。
塾が有料であるということは、それもかなり高額であるゆえに、家庭の経済力によほど余裕がなければ通塾は不可能である。そういう意味では、塾の門戸は家庭の経済力如何により選別されているわけであり、家庭に経済力のある子どもだけを教育しているということになる。これは、民間企業全てに当てはまる市場主義経済から生じる結果であり、致し方ないことである。
ただ、そのことがいま学校現場で生じている学力格差(学力の二極化、いや、三極化以上かも知れない)を、ますます助長させる一因を作っているのではとの危惧が生じる。それも市場原理ということだけで切り捨てられるものだろうか。教育という言葉が虚ろに響いてくるのを禁じえない。
バブル期にはかなりの生徒が塾に集まっており、どの塾も入塾テストを行い選別を行っていた。特に大手塾や進学塾を標榜する塾はそうであった。しかし、少子化の進行と経済の悪化ならびに塾業界への新規参入者の増加などにより、生徒の奪い合いが激しくなり、いまや入塾テストを行うケースは皆無といってよい。
そうした中で、以前なら塾に通っていた成績下位層の塾通いがめっきり減ってきている。塾生たちからは、学校での同じクラスのAもBもCも塾へ行っていないよ、というような情報が入ってきたりする。と同時に塾長仲間からも同様の声を聞くようになってきている。彼らはどこで誰に救われるのだろうか。
5)
最後に、授業の内容ないしは教授法についてである。塾での最大の売りは、先ずは学校のテストの点数を上げることである。特に、中学校で年に四五回行われる定期テストの順位を上げることは、塾の存続にも関わる重要な仕事である。一般の生徒はそのために塾に通っていると言ってよい。
では、どうやって成績をあげるかが問題である。特に、部活付けで普段勉強していない生徒の場合は問題である。一朝一夕で成績が上がるはずはないからである。それでも塾としては順位を上げてやらなければ親からクレームがつく。だからテスト前五日間の部活休みが勝負ということになる。
このような場合にほとんどの塾でとられるテスト勉強法がる。それが「ごまかし」勉強である(藤澤伸介著『ごまかし勉強〈上〉学力低下を助長するシステム』新曜社を参照)。
藤澤氏は、「ごまかし」勉強の中身を「学習範囲の限定」、「代用主義」、「機械的暗記志向(暗記主義)」、「単純反復志向(物量主義)」、「過程の軽視傾向(結果主義)」の六つに分類されているが、なるほど指摘されてみると納得すると同時に、耳の痛い指摘である。
この中で最も問題なのが「学習範囲の限定」であろう。実はこれは塾の責任ではなく、学校の責任である。試験二週間前になると範囲表なるものが配られる。そして、丁寧にも更なる範囲の限定や出題されそうな要点や問題までプリントで配布される。これでは、傾向と対策をプロとする塾側にとっては、それに乗らない理由はないし、というよりは生徒たちの方がそれ以上のことはやろうとしない。
かくて、要領のよい生徒が上位を占め、推薦で高大へと進学できるサイクルが出来上がることになる。
以上のような実態の中で、われわれは学力をどう捉えたらいいのだろうか。ニーズ論に従えばこれで良しと言うことなろうが、それでは日本の子どもたちの学力低下を云々する資格はないのではないか。よく塾長たちの間から「日本の子どもたちの学力は塾が支えている」という声を聞くことがある。しかし、官民挙げての「ごまかし」勉強の下では、本当の学力は望めないのではないか。
これを脱却するには、藤澤氏が提唱されるような「正統派学習」、すなわち「学習範囲の拡大」、「独創思考」、「意味理解志向」、「方略志向」、「思考過程の重視」という方向を目指すべきである。もっとも「学習範囲の拡大」は学校側の権限であるが、それの持つ害悪の側面を塾側が強く学校側や生徒たちに指摘するのも一つ仕事とかんがえたい(ただし、学習範囲の拡大は、通塾率をあげることになるとの反論も予想されるが、本当の学力の向上のためには必要なことである)。
6.学習塾(民間教育産業)の存在が引き起こしている課題