‘03 国語力について’ 一覧

2.中教審答申「新しい時代における教養教育の在り方について」
2004-02-03

この答申は、第1章 「今なぜ『教養』なのか」、第2章「新しい時代に求められる教養とは何か」、第3章「どのように教養を培っていくのか」から構成されているが、「国語」と関係する部分は第2章(4)と第3章である。すなわち、

【資料 1-2-1】
第2章 新しい時代に求められる教養とは何か
教養とは,個人が社会とかかわり,経験を積み,体系的な知識や知恵を獲得する過程で身に付ける,ものの見方,考え方,価値観の総体ということができる。教養は,人類の歴史の中で,それぞれの文化的な背景を色濃く反映させながら積み重ねられ,後世へと伝えられてきた。人には,その成長段階ごとに身に付けなければならない教養がある。それらを,社会での様々な経験,自己との対話等を通じて一つ一つ身に付け,それぞれの内面に自分の生きる座標軸,すなわち行動の基準とそれを支える価値観を構築していかなければならない。教養は,知的な側面のみならず,規範意識と倫理性,感性と美意識,主体的に行動する力,バランス感覚,体力や精神力などを含めた総体的な概念としてとらえるべきものである。
21世紀を迎え,変化の激しい流動的な社会に生きる我々にとって必要な資質や能力は何か,これを培うための教育はどうあるべきか,こうした観点から,本審議会は,新しい時代に求められる教養について検討を行い,その要素として次の5つの点を重視した。
(1)新しい時代を生きるための教養として,社会とのかかわりの中で自己を位置付け律していく力や,自ら社会秩序を作り出していく力が不可欠である。主体性ある人間として向上心や志を持って生き,より良い新しい時代の創造に向かって行動することができる力,他者の立場に立って考えることができる想像力がこれからの教養の重要な要素である。
(2)東西の冷戦構造の崩壊後,グローバル化が進む中で,他者や異文化,更にはその背景にある宗教を理解することの重要性が一層高まるなど,世界的広がりを持つ教養が求められている。そのためには,幾多の歳月を掛けてはぐくまれてきた我が国の伝統や文化,歴史等に対する理解を深めるとともに,異なる国や地域の伝統や文化を理解し,互いに尊重し合うことのできる資質・態度を身に付ける必要がある。世界の人々と外国語で的確に意志疎通を図る能力も求められる。
(3)科学技術の著しい発展や情報化の進展は,人類に恩恵をもたらす一方で,地球規模の環境問題,情報通信技術や遺伝子操作技術などその使い方をめぐって倫理的課題をはらむ問題をも生み出し,科学技術の進展を単純に是としてきたこれまでの価値観を問い直すことも求められるようになっている。一人一人が,自然や物の成り立ちを理解し,論理的に対処する能力を身に付けるとともに,科学技術をめぐる倫理的な課題や,環境問題なども含めた科学技術の功罪両面についての正確な理解力や判断力を身に付けることは,新しい時代の教養の基本的要素である。
(4)時代がいかに変わろうとも普遍的な教養がある。かつて教養の大部分は古典などの読書を通じて得られてきたように,読み,書き,考えることは,教養を身に付け深めるために中心的な役割を果たす。その礎となるのが,国語の力である。国語は,日常生活を営むための言語技術であるだけでなく,論理的思考力や表現力の根源である。日本人としてのアイデンティティの確立,豊かな情緒や感性の涵養には,和漢洋の古典の教養を改めて重視するとともに,すべての知的活動の基盤となる国語力の育成を,初等教育の基軸として位置付ける必要がある。
(5)教養を形成する上で,礼儀・作法をはじめとして型から入ることによって,身体感覚として身に付けられる「修養的教養」は重要な意義を持っている。このためにも,私たちの思考や行動の規範となり,教養の基盤を形成している我が国の生活文化や伝統文化の価値を改めて見直す必要がある。
【資料 1-2-2】
第3章 どのように教養を培っていくのか
(2)具体的な方策・・・2)確かな基礎学力を育てる・・・2.国語教育や読書指導の重視
国語教育を格段に充実する必要がある。その際,名文や詩歌等の素読や暗唱,朗読など,言葉のリズムや美しさを体で覚えさせるような指導の良さを見直すべきである。また,近年多くの学校に広がっている「朝の10分間読書」は,読書の楽しみを知るだけでなく,集中力の向上などにも大きな成果があると言われ,このような活動が更に広がっていくことが期待される。併せて,司書教諭の配置やボランティアの活用,情報機器の整備などを通じ,図書館の総合的な機能の充実に取り組んでいく必要がある。

 

ここで気が付くことは、新しい時代に求められる教養の要素として以上の5つの点を重視したとあるが、(4)での国語の位置づけが他とは異なっているように思われることである。すなわち、国語と国語力の違いがはっきりしてないこともさることながら、それらが教養の要素そのものなのか、それとも教養を培うための礎にすぎないのかということである

【第一章】1.「これからの時代に求められる国語力について」
2004-02-02

塾教育研究会(JKK)代表 皆倉 宣之

この答申には、国語(力)をめぐる様々な課題が含まれており、また、それは我々が日々接している全ての乳幼児・児童・生徒・学生に関係するものであることから、その中身を幅広く検証してみる必要があるように思われる。
答申は、第I部「これからの時代に求められる国語力について」、第II部「これからの時代に求められる国語力を身に付けるための方策について」の2部からなり、その第I部、第1章で「国語の果たす役割と国語の重要性」というタイトルで、国語の重要性を説いている。すなわち、
国語の果たす役割と国語の重要性については,母語としての国語という観点から,次のように,「個人にとっての国語」「社会全体にとっての国語」「社会変化への対応と国語」という3点に整理される。

【資料 1-1-1】
1.個人にとっての国語
個人にとっての国語が果たす役割は,以下に示すように,「知的活動の基盤」「感性・情緒等の基盤」「コミュニケーション能力の基盤」として,生涯を通じて,個人の自己形成にかかわる点にあると考えられる。
1)知的活動の基盤を成す
国語によって,これまで人類が蓄積してきた「知識や知恵」を獲得することができる。また,知識なくして「創造性や独自性」を求めることは困難であって,この点で,国語は各人の創造性などの根元的な基盤となっている。
すなわち,国語は,各人の知的活動の基盤として,あらゆる「知識の獲得」と「能力の形成」にかかわるものであると言うことができる。
また,国語は,各人の論理的思考力の基盤である。思考と国語は密接に結び付いており,深く思考するためには豊かな語彙(い)が不可欠である。思考そのものが国語によって支えられているが,日常生活で必要となる論理を身に付けるためにも,国語の運用能力が重要な役割を果たしている。
さらに,状況に即応した局面的な判断は理性や論理等により対応できるが,長期的な展望に立った大局的な判断には,理性や論理だけでなく,広く深い教養が必要である。このような教養を身に付けるためには,日ごろから活字文化に親しんでいることが大切であり,その意味で国語が基盤を担っていると考えられる。
2)感性・情緒等の基盤を成す
我が国の先人たちが築き上げてきた詩歌等の文学を読むことなどによって,美しい日本語の表現やリズム,人々の深い情感,自然への繊細な感受性などに触れ,美的感性や豊かな情緒を培うことができる。また,人間として持つべき,勇気,誠実,礼節,愛,倫理観,正義,信義,郷土愛,祖国愛などは,情緒が形になって現れたものであるが,これらも文学などを通して,すなわち国語を通して身に付けることができる。
3)コミュニケーション能力の基盤を成す
言葉や文字などによって,意思や感情などを伝え合いコミュニケーションを成立させることは,国語の最も基本的な役割である。その意味で,国語は個人が社会の中で生きていく上に欠くことのできない役割を担っている。
コミュニケーションの基本は,相手の人格や考え方を尊重する態度と言葉による伝え合いであり,国語の運用能力がその根幹となっている。また,言葉によって多様な人間関係を構築することのできる「人間関係形成能力」や目的と場に応じて「効果的に発表・提示する能力」は,現在の社会生活の中で強く求められている能力の一つであるが,これらの根幹にあるのもコミュニケーション能力であり,国語の力である。
【資料 1-1-2】
2.社会全体にとっての国語
社会全体にとっての国語は,以下に示すような役割を持ち,文化を継承し,創造・発展させるとともに,社会を維持し,発展させる基盤となると考えられる。
1)国語は文化の基盤であり,中核である
国語は,長い歴史の中で形成されてきた我が国の文化の基盤を成すものであり,また,文化そのものでもある。国語の中の一つ一つの言葉には,それを用いてきた我々の先人たちの悲しみ,痛み,喜びなどの情感や感動が集積されている。我々の先人たちが築き上げてきた伝統的な文化を理解・継承し,新しい文化を創造・発展させるためにも国語は欠くことのできないものである。
また,国語は,学校教育のあらゆる教科や様々な学問の基盤であり,自然科学の分野においても,その重要性は全く変わるものではない。
さらに,地方の伝統文化や地域社会の豊かな人間関係を担う多様な方言については,地域における人々の共通の生活言語であり,同時にそれぞれの地域文化の中核でもあると考えられる。
2)社会生活の基本であるコミュニケーションは国語によって成立する
社会生活は,人間と人間との関係によって成立しているが,その人間関係を成立させるのがコミュニケーションの手段として用いられる国語である。コミュニケーションを成り立たせている「聞く・話す・読む・書く」のすべてが国語を通して行われ,これらの活動を介して社会生活が成立している。すなわち国語なくしては,社会は成立せず,その発展も望めない。
さらに,各人が自分らしい,納得できる幸せな人生を全うできるようにするためには,自分の頭で考える力と,他の人との関係を考慮しつつ,自分の中にある思いを言語化して社会に発言していく力が必要である。
【資料 1-1-3】
3.社会変化への対応と国語
価値観の多様化,都市化,少子高齢化,国際化,情報化など,社会の変化が急速に進む中で,各人がその変化に対応するために,国語は重要な役割を果たすものと考えられる。
1)価値観の多様化,都市化,少子高齢化などの進展と国語
現代の社会においては,価値観の多様化が大きく進展している。多様な考え方や価値観を持った人々との間で伝え合い,相互理解を深めながら人間関係を形成していくためには,これまで以上に高度な国語の運用能力が必要である。
さらに,都市化や少子高齢化などが同時に進展する中で,家庭や地域の教育力の低下や世代間の人間関係の希薄化等が進行しつつある。異なる世代間における円滑な意思疎通は,今後ますます困難になっていくと考えられる。この危険を回避するには,上述の国語の運用能力に加えて,高齢者と若者との間で一定の国語的素養を共有しておくことが大切である。
いじめや不登校,家庭内暴力,少年非行などの子供をめぐる諸問題についても,子供同士,子供と教員,子供と親,子供と大人などの間で言葉を介しての意思疎通や,日常的なコミュニケーションが十分にできなくなっていることが,一つの原因ではないかと指摘する声もある。これらの諸問題への対応の面からも,言葉を用いて伝え合う能力の育成は子供たちの教育における喫緊の課題であると考えられる。
具体的には,相手や場に応じた言葉遣い,あいさつや依頼・感謝の言葉,お互いを認め合い励まし合う言葉など,社会生活と人間関係形成に不可欠な話し言葉の運用能力の育成に取り組むことが重要である。
また,地域での意思疎通の円滑化と地域文化の特色の維持のためには,方言についても十分に尊重されることが望まれる。
2)国際化の進展と国語
国際化が急速に進展する中では,個々人が母語としての国語への愛情と日本文化についての理解を持ち,日本人としての自覚や意識を確立することが必要である。その上で,各国の固有の文化についての理解とそれを尊重する態度が一層大切になる。このような意識や理解を持つために,国語は極めて重要な役割を担っている。
また,異文化との接触が増大し,これまで以上に言語(国語及び外国語)の運用能力が求められる。具体的には,自らの考えを論理的に,かつ説得力を持った言葉で表現することが求められることになるが,外国語の運用能力も総じて国語の運用能力が基本になっているものである。この点においても,国語の果たしている役割は大きい。
3)情報化の進展と国語
情報化の進展によって,多くの人々が膨大な情報に日々接している。これらの情報を適切に活用する能力,具体的には,膨大な情報を速やかに処理・判断する能力,必要な情報と必要でない情報を選択する能力,多くの必要な情報の中から本質をつかみ取る能力,また,限られた時間の中で的確に文章をまとめて自らの情報を発信する能力などがこれまで以上に求められる。
さらに,インターネットなどで,断片的に流れる情報を体系的に「組み立て直す力」も必要である。これらの力を伸ばす上で,国語の運用能力や読書などによって培われた大局観が根幹となることは言うまでもない。

この後、第2章「これからの時代に求められる国語力」、第3章「望ましい国語力の具体的な目安」へと続くが、この第2章において、以下のような「これからの時代に求められる「国語力」の構造(モデル図)」が示されている。こういう理解の仕方に問題はないかの議論が当然にでてくるものと思われるが、ここでは触れないでおく。

model01-s

 

【第一章】国語の果たす役割と重要性について
2004-02-01

塾教育研究会(JKK)代表 皆倉 宣之

はじめに

国語という教科は他の教科と異なり、教える側(教師)にとっても、教わる側(児童・生徒)にとっても、どこか焦点が定まらず不完全燃焼の気分を拭い去ることのできない部分が多いのではないか。特に教わる側(児童・生徒)にとってはその感が強い。このことを、国語教師はどのくらい感じているであろうか。少々長くなるが、教わる側の心情を引用してみる(苅谷夏子さんの回想)。

【資料 1-0-1】 苅谷夏子さんの回想
どうも国語はなまぬるい
小学生の頃、私は国語という教科が好きになれなかった。苦手というわけではない。どちらかと言えばまじめな、一生懸命な子どもであったから、言われれば漢字の練習もする。辞書をひいてことばの意味を調べたりもする。国語の教科書を読むのもけっこう好きだった。それでも、高学年になった頃から、どうも国語は好きじゃない、と内心思っていた。あのころどんなふうに考えていたか、思い出してみる。
算数や理科はいい。きのうまで知らなかったことが、今日はわかったり、納得できたりする。このページを勉強し終えたときに、何がわかっていればいいのか、小学生の目にもそれははっきりとしていた。何をすればいいのかさえわかれば、勉強もそれほど辛いことではなく、前向きな気持ちで取り組むことができる。順序立てて考えないと答えが得られないような算数のこみいった問題を、苦心の末に解いたときなどは、それは晴れ晴れとうれしかった。もうこれが正解に決まっていると、自分でもわかる。そういう明快さは心地よいものだ。もちろんむずかしすぎてわからないこと、高級すぎて先送りにするしかないことも山ほどあったが、それでもいつかはきっと理解できる日がくるだろうと思っていた。勉強して、進歩する、というイメージを描くことができた。この進歩のイメージは、小学生にはうれしく、輝かしいものだった。
でも国語はちがう、と、11~2歳の私は思っていた。漠然とではあったが。
どうも国語はなまぬるい。そもそもこの日本語ということばならば、もうけっこうよく知っている。生まれてすぐから、この言葉を聞いて育ち、毎日それを使って人と話をし、新聞や本を読んだりすることもできる。そうしたことが国語の力なのだとしたら、いつのまにかそれくらいのことはできるようになっていた。たいして国語の授業のお世話になぞなっていない。新しい漢字や、ちょっとむずかしそうなことばを、教科書の順に従って習ってはいるが、そんなのは大したことじゃない。私は不機嫌にそう思っていた。
子どもの頃は、自分でもわけがわからないうちに、なんとはなしに不機嫌になることがあったものだ。たとえばあんなに楽しみにしていた正月、お雑煮を食べ、お年玉をもらってしまうと、みるみる風船がしぼむように何かが消え失せ、不機嫌な気持ちがわいてくる。そういう気持ちの変化を、その頃は説明もできず、自分でも持て余していたものだった。周りの人も困ったことだろう。だが、大人になってから思い返してみると、ただのわがままとばかりは言えない、もっともな原因がちゃんとあったりする。ある程度はしかたのなかったことだったりする。そして国語に対する不機嫌にも、それなりの理由はあったのだ、と大人になった私は、小学生の頃の自分を守ってやりたくなる。
授業のありがたみがわからない
たとえばまず、教科書の文章を順々に読んでいって、新出漢字と語句を覚え、短文を作り、段落ごとに要旨を二〇字以内かなにかで書き、主人公の気持ちの変化を表にする、そういうことをひたすら延々と繰り返すことに、私はすっかり飽きていた。いかにもつまらなそうな棒読みで一段落ずつ交替に音読していくのも、決まった作業だったが、はじめて読んだときには面白くて思わず引き込まれたような文章も、そんなふうにして読むと面白くもなんともない。あれでは書いた人が気の毒なくらいで家で一人で読んだほうがよほど楽しい。そういう決まったルーティーンを繰り返しながら一編ずつ文章を読んでいく授業が、なんともいえず退屈だった。
その上、くりかえされる授業がいったいなんの勉強になるのか、いつもよくわからなかった。教科書の文章そのものを心に留めておくようなことはめったにない。せいぜい、いくつかの漢字を覚えるというような些細な前進しか、実感できずにいた。
それから、問いに対しての正解の基準が、しばしば釈然としなかったのは、大きな不信のもとになった。特に文学作品が教材だったときには、当たるも八卦、当たらぬも八卦、というような感じである。自分の答えが正解であったとしても、もともとが勘を頼りに答えただけなのでそううれしくもない。誤答であっても、では次からはどうしたらいいのかわからない。せっかく自信を持って答えられるような問いがあっても、そういうときは一転してあまりに自明な問題だったりして、逆に、いったい何が聞きたくてこの問題はあるのだろう、と出題の意図を疑いたくなる。じっくりと考えた末に、根拠を持って答えて、堂々、正解に達するという達成感が希薄なのだ。
詩の解説などを読む折には、詩というものはとうてい自分には理解できない、手が届かないものだとまで思わされてしまうことが多かった。「第二連では、自然にわき出るようなあこがれが表されている」などと解説されても、いったいどこにそんなことが書いてあったのか、どうして自分には、まるでそれが伝わってこないのか、情けなくなってくる。そのたびに少しずつ自信をなくしていくのだ。
登場人物の心情を汲み取りながら読む、というような学習も、苦手だった。今思えば、ウエットな心情論をあやふやに言い合うことを、漠然と疑っていたのだろう。「行間を読む」という読書法は、ひとつ間違えれば眉唾物ではないか。実際、常識や道徳的な判断までが入り乱れてしまい、授業がしばしば混乱した。どうも、これは「勉強」というものとは少しちがうぞ、と私は内心思っていた。
だいたい、新しいことばに出会って、妙に気に入り、一度で覚えて使ってみたりするのは、たいていは国語の授業とは関係のない場面で起きるのではないだろうか。そういうときは、不思議にちゃんと間違いなく覚えられ、うまく使えるものなのだ。だからよけいに、国語の授業のありがたみが感じられない。唯一、存在感のあった「新出漢字」ですら、あまり習ったという気はしない。自分で努力して覚えただけのことである。
そんなこんなで、不機嫌だったのだ。生意気ではあるが、まあ同情できる点も多いではないか。こんな心境で教室に座っている子どもは、日本中に今もたくさんいるのではないだろうか。おとなしく座って授業に参加しているのは、おとなしくしていようという健気な気持ちがあるからで、純粋に向学心からそうしているのではない。残念なことではあるが、しかたがない。私の不機嫌も容易にはなおらず、私にとって国語という教科は、わけのわからないものであり、同時に甘っちょろいものだった。
(大村はま/苅谷剛彦・夏子共著『教えることの復権』(ちくま新書)より)

もっとも、このことの核心は「国語科で何をどのように教えるのか」ということに直結するが、この点については次回に考えることにする。
さて、ここ3~4年の間、国語もしくは国語力(これに「読書」を含めて国語問題と呼ぶことにする)に関する国の関心が高まっている。以下に述べるように各種の審議会が国語問題を取り上げ、答申という形で発表している。
その背景には、グローバル化の進展に必然的に伴う日本若しくは日本人としてのアイデンティティの喪失の恐れに対する日本国家の恐怖(?)と対策という側面が読み取れる。そればかりではなく、「読書」という形をとって青少年対策、さらには子育て支援に至るまでその射程距離は広くて深い。
そこで、今回は、国がなぜあちこちで国語の重要性を説いているのか、その動きを拾ってみたい

 

Copyright© 京葉学舎 | 千葉市花見川区の学習塾 All Rights Reserved.