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塾は禁止せよ!
2007-02-05

はじめに

「塾は禁止せよ」との前代未聞の野依良治(のよりりょうじ)氏の発言が飛び出したのは、安倍内閣の目玉である「教育再生会議」の「第3回 規範意識・家族・地域教育再生分科会」(第2分科会)においてであった(06年12月8日)。氏は教育再生会議トップの座長を務める。当然のことながら、塾関係者からはこの発言に対して、反発するというよりは激怒する声が沸きあがった。[当時の議事録はこちらをクリック]→[議事録]
しかしながら、私は、単に「塾は禁止せよ」との結論部分のみをもって反発してみても、国民に対する説得力を持ち得ないのではないかと思っている。なぜなら、単に塾禁止論に対抗するだけなら我々の側には憲法22条第1項の「職業選択の自由」という錦の御旗があるので、それほど目くじらを立てるほどのこともないと思われるからである。ここで重要なのは、野依氏がこういう発言をなすに至った背景を探ることである。

 

発言の内容と分類

野依氏の発言の中で問題となるであろうものを挙げると、以下の三つに分類できると思われる。
A
「200人に1人、とてもよくできる子供がいる。それを伸ばさないといけない。才能ある子は国の宝だ」
「人間の能力は違う。努力しても、できないものはできない。適性がある」
(『子供は遊ばないと伸びない』という小宮山委員《東大総長》の話を受けて)
塾をやめさせて、放課後子供プランをやらせないといけない。塾は出来ない子が行くためには必要だが、普通以上の子供は塾禁止にすべきだと思う」
B
「今の日本の大学生が世界的に見てレベルがどうかも大事なこと。世界に負けている」
C
(『日本の数学のレベルは学校ではなくて、塾によって維持されているという面もある』との葛西委員《JR東海会長》の話を受けて)
「それは本来学校がやるべきこと。もちろん学校は再生させなければならないが、その代わりに塾をやめさせる。そして、遊びだけではなく、文化・文芸を勉強する」
(『昨今、学力が落ちていると言われているが、競争社会の中で小さい頃から勉強をやって、塾も行って、それでも学力が落ちているのはどういうことか』という陰山委員の話を受けて)
「私は文化力の低下だと思う。算数、数学だけやっていても力がつくものではない。だから放課後子供プランは是非ともやらなければならない」
※「放課後子供プラン」とは、放課後の児童・生徒の居場所作りのこと。今まで文科省と厚労省がバラバラにやっていたものを合わせて、さらに国が交付税措置として、全国の公立小学校で、出来るようになるもの。単純に計算すれば、一校あたり500万円くらいの予算となる。

 

問題の所在

先ず、Aは、ノーベル賞受賞者ということから発想される野依氏のエリート主義の典型といっていいだろう。すなわち、人間の能力には適性というものがあり、努力してもできないものはできないのだから、全人口の0.5%の才能を重視したほうが国家の利益になる、という考えである。差別というより、あのヒトラーが走った優生思想の再来を想起させるお恐ろしい考えである。公教育の再生を議論する場で、このような発言が行われていることに驚きと憤りとを感じずにはいられない。
また、「塾は出来ない子が行くためには必要だ」というのは、公教育の責任は放棄しておいて、私費で学力を上げよという論理であり、後述する暗黙知論とは矛盾しないか。それとも暗黙知はエリートだけでよいとでもいうのだろうか。
さらには、塾そのものを禁止の対象とするのではなく、通塾している子供の能力が普通以上か否かによって塾を禁止するというのは、子どもたちの能力に塾の運命がかかっているという、なんともいえない不条理な構図ではないか。
次に、Bは、最近の大学生及び大学院生(つまり高等教育の場において)の学力のレベルが低い(もしくは以前と比べて低下している)ということへの苦言である。この指摘は正しいと思う。ただし、その学力低下の原因を一方的に塾通いに求めているのは解せないが、その背景にはCと関連するものがある。
最後に、Cこそが野依氏の学力論の根幹である。本当の学力はどうやって培われるのかということである。「それは、算数、数学だけやっていても力がつくものではなく、いろいろな遊びや体験を多く積むこと、さらに文化・文芸に触れることなどによって培われるものである。だから放課後子供プランは是非ともやらなければならない」ということになる。
この考えをもっと以前から強調している学者がいる。それはいまやベストセラーとなっている「国家の品格」の著者である数学者・藤原正彦氏である。ただし、彼は国語力をも重視し、昨今の小学校への英語を導入する風潮を亡国を煽るものとして批判している。

 

野依氏の塾禁止発言の背景

実は野依氏は、二年ほど前に既に塾禁止論を展開していた(我々は05年のJKKの総会においてこれを受けて議論を行っていたのである)。すなわち、
「『塾に行くことで失うものは大きい。今の子供の学習塾への依存度と功罪をどう考えているのか』去る4月27日の中央教育審議会の教育課程部会で、ノーベル賞受賞者でもある野依良治委員が、会議の終了間際のゆるんだ会議場の空気を一変さた。それを聞いた文科省幹部は『実態は後ほどデータで説明いたします』と声を上ずらせた。 井上記者が部会後にその発言の真意を野依氏に聞いたところ、『塾はけしからん。国で禁止したらいい』と厳しい言葉が飛びだした。その理由は、「知」には個人が体験から導く「暗黙知」と、言葉や図式で示されるカタログ的な「形式知」があり、塾は形式知を詰め込むだけだからである。『暗黙知なし、形式知だけの人間が大学へ行くのは問題だ』と」
(毎日新聞05年5月13日付記事)
この野依氏の問題提起は、河合塾の丹羽健夫氏が常々述べていること、すなわち、考える力のない生徒がうちの大学に入ってきて困っているという東大や京大など超一流大学の教授たちの嘆きと一致する課題でもある。
丹羽氏によると、高等学校がなぜ80年代を境にして知識注入型の受験を意識した授業をやりだしたかというと、大学進学率が急上昇して大学入試での採点が大変なことになり、大学が、手間を省くために客観テスト的な入試問題へと舵を切っていったことが大きく影響しているらしい。ときあたかもセンター入試が始まり、ますますその傾向に拍車がかかっていった。こうなるとそういう問題を解ける生徒を生産してゆくのが市場原理というもの。したがって、疑念型(ナゼ?と問う型)ではなく、肯定型(納得型or理解型)の生徒を作り出している張本人は、この現象を嘆いている大学自体だということになりはしないか、ということにもなる。
私は、暗黙知に関しては野依氏を支持する。塾といってもその中味は様々で、塾全体を一つに括ることはできない。しかし、少子化が進む中で年々競争が激しくなることから、教材会社のテキストに頼り、パソコン等の機器に頼る傾向が増えつつある。これは本来が塾の持つていた多様性が薄れ、逆に画一化してゆくことを意味する。つまり形式知にどっぷりとはまることになる。
したがって、野依氏へ反論するのであれば、塾禁止論は別として、塾がほんとうに子どもたちの持っている能力を引き出すような教育を行なっていることを証明する必要がある。いわゆる有名進学校へ合格させたからといって、いい授業をやっていることにはならないのである。なぜなら、そういう子どもたちが一流大学へ入って、教授たちを嘆かせているからである。
※「私たちは言葉にできるより多くのことを知ることができる」という有名なフレーズで引用されるところの「暗黙知」とは、経験や勘に基づく知識のことで、言葉などで表現が難しいものをいう。ハンガリーの哲学者マイケル・ポランニー(Michael Polanyi)によって1966年に提示された概念である(著書『暗黙知の次元』 を参照)。これに対置する概念は「形式知」である。
いまや暗黙知は、大学や民間の理系の研究機関のみならず、経営学の分野でも頻繁に活用されるようになってきている。

 

終わりに

教育再生会議はその位置づけが曖昧であるとの批判があるにもかかわらず、安倍内閣の目指す美しい国づくりの一環として教育問題をとりあげるという方向で動き出している。そこでは、当然に国民にインパクトのある改革案を提示したいという意向が働く。塾禁止論はそういう中で野依氏の自論が唐突に飛び出したに過ぎないといえなくもない。各委員間の合意形成がほとんどみられないからである。案の定一月に発表された中間報告には、このことに一言も触れられてはいない。
ただ、先にも述べておいたように、塾禁止論とは関係なしに、塾の教育力とは何か、塾に教育力があるのか、それらはどうやって国民を納得させられるのか等々の課題について、検討する姿勢を常に持ち続けることが必要である。特に、最近急速に広がってきた所得格差は、ひいては教育格差を、そして学力格差を招来しつつあるが、このような状況は従来の単なるニーズ論を超える課題を突きつけつつある。こういう状況の中では、どのようにしたら出来る子も出来ない子も十分に面倒を見ることができるかが重要となってくる。

公立中高一貫校の出現とその問題点
2006-08-08

公立中高一貫校の出現とその問題点
~加速する中学校選択の流れ~

塾教育研究会(JKK)代表 皆倉宣之

現行の学校教育では小中学校までは義務教育段階なので、敢えて私立学校を望まない限り居住地の自治体が予め定めた学区の学校に入学するのが原則である。ところが、最近この原則が特例により徐々に崩されつつあり、自分たちの責任でどの公立学校へ進むかの選択を迫られる傾向が加速しつつある。それは、各自治体が従来の学区の規制を外して学校選択制を導入しつつあることと、主として都道府県主導による公立中高一貫校の出現に帰因している。加えて、少子化にもかかわらず私立中学入試はますます過熱し、今年の首都圏での中学受験率は18.0%(昨年16.2%)と過去最高を記録している。したがって、これら三者の相互作用による小学六年時における中学校選択は避けて通れなくなりつつある。
従来の選択は私立中学への進学を目指すか、それとも学区の公立中学へ自動的に進むかの二者択一であった。そこでの私立学校を選択する要因は、高い学費を払えるだけの経済的余裕があるかどうかに規定されながらも、公立高校では難関大学受験は不利だとか、地域の中学校が荒れているといった公立学校への不満からであった。
こうした住民の不満に応えるために各自治体は、学校現場に競争意識を持ち込むために学校選択制を導入したり、公立の中高一貫校を設置したりし始めたのである。
これらは、公立の中学校を選択するという意味では同じであるが、前者は受験なしの選択であるのに対し後者は受験を必要とするという点において異なる。
公立の中高一貫校の設置理由については、行政の表向きの説明は中高六か年を通じて公立学校における多様な教育を行なうというものである。しかし、保護者たちの本音と期待はこれとは異なり、公立の進学校化を期待している。その背景には、私立への進学を経済的理由から諦めていた層の存在がある。このことは、今年行われた都立五校の入試結果からも推測される。すなわち、大手の中学受験塾の資料によると、私立と公立とをかけもち受験したものは約二割に過ぎず、模試の結果からもかなり学力の高い生徒が公立を受験していることがわかる。
このことからすれば公立の中高一貫校の出現は、経済格差から生じる学力格差を是正する機能を果たす可能性が期待できそうである。
ただし、数少ない公立中高一貫校の人気が上がってくればくるほど、その過熱がもたらす悪影響も心配される。そのレベルが高くなると私立上位校とのかけもちが進行し、そのことが公私を含めた中学受験熱を一層加速させると同時に、それに取り残された従来のほとんどの公立中学校との間で大きな格差が生じる恐れがあるからである。これまで以上に学力の二極化、いや三極化が進むと同時に、公立のエリート校化への懸念もでてくる。

学校と塾の関係を問う
2005-07-15

塾教育研究会(JKK)代表 皆倉宣之

先日、東大大学院教育学研究科・教育創発機構(機構長・苅谷剛彦教授)が主催する「学校と塾の関係を問う」という公開研究会が本郷の東大で行われた。発表者は、塾経営者、元公立中学校長、韓国人の上智学院(日本の塾にあたる)経営者、アメリカ人によるアメリカの塾事情、大学教授の五人で、ほかに指定討論者として二名の大学教授と多彩であった。
実は本研究会は二回目であり、苅谷教授をはじめとする教育社会学者たちが、現実としては存在しながらなかなか分析対象としては取り上げられてこなかった学校と塾の関係に、真正面から取り組んでみようという意気込みが感じられる催しであった。
今回の研究会開催の趣意書によれば、学校と塾の関係を現象面としては「日本は、世界においても、学校教育の外での塾通いが多く、“二重に”勉強している子どもが多い国の一つとして知られている。
こうした学校外での組織的な学習指導は、英語でシャドーエデュケーション(影の教育)などと呼ばれてきたが、場合によっては学校でリラックスして塾で勉強する「影」が表になるような現象が見られたり、同時に、「影」と表との新しい関係が模索されたり、両者もまたそれぞれに変化したりなどの動きが見られる」と捉え、それゆえに、「塾、学校など、それぞれの異なる立場から具体的に子どもの学習状況に関して何が言えるのか、相互にどのような関係が築かれているのか、今後どうすべきかが課題となり、それを議論していく」ことの必要性が求められることになる。
塾に携わっている私として、この問題認識は極めて重要であると考えているが、もっと緊急を要する課題があると考える。それは、学力低下論争を機に自治体や親たちの塾への期待が高まる傾向も見受けられるが、他方では経済的に塾へ通えない子どもたちが増えており、その結果ますます学力の二極化が進行しつつあることである。塾の存在が、経済の格差を学力の格差へと転化する役割をはたしているとしたら、これは単なる自由競争(または自己責任)の原理で済まされる問題ではないだろう。塾を禁止できないとすれば、あとはバウチャー制の導入などで何とかするしかないのかも知れない。

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