はじめに

「塾は禁止せよ」との前代未聞の野依良治(のよりりょうじ)氏の発言が飛び出したのは、安倍内閣の目玉である「教育再生会議」の「第3回 規範意識・家族・地域教育再生分科会」(第2分科会)においてであった(06年12月8日)。氏は教育再生会議トップの座長を務める。当然のことながら、塾関係者からはこの発言に対して、反発するというよりは激怒する声が沸きあがった。[当時の議事録はこちらをクリック]→[議事録]
しかしながら、私は、単に「塾は禁止せよ」との結論部分のみをもって反発してみても、国民に対する説得力を持ち得ないのではないかと思っている。なぜなら、単に塾禁止論に対抗するだけなら我々の側には憲法22条第1項の「職業選択の自由」という錦の御旗があるので、それほど目くじらを立てるほどのこともないと思われるからである。ここで重要なのは、野依氏がこういう発言をなすに至った背景を探ることである。

 

発言の内容と分類

野依氏の発言の中で問題となるであろうものを挙げると、以下の三つに分類できると思われる。
A
「200人に1人、とてもよくできる子供がいる。それを伸ばさないといけない。才能ある子は国の宝だ」
「人間の能力は違う。努力しても、できないものはできない。適性がある」
(『子供は遊ばないと伸びない』という小宮山委員《東大総長》の話を受けて)
塾をやめさせて、放課後子供プランをやらせないといけない。塾は出来ない子が行くためには必要だが、普通以上の子供は塾禁止にすべきだと思う」
B
「今の日本の大学生が世界的に見てレベルがどうかも大事なこと。世界に負けている」
C
(『日本の数学のレベルは学校ではなくて、塾によって維持されているという面もある』との葛西委員《JR東海会長》の話を受けて)
「それは本来学校がやるべきこと。もちろん学校は再生させなければならないが、その代わりに塾をやめさせる。そして、遊びだけではなく、文化・文芸を勉強する」
(『昨今、学力が落ちていると言われているが、競争社会の中で小さい頃から勉強をやって、塾も行って、それでも学力が落ちているのはどういうことか』という陰山委員の話を受けて)
「私は文化力の低下だと思う。算数、数学だけやっていても力がつくものではない。だから放課後子供プランは是非ともやらなければならない」
※「放課後子供プラン」とは、放課後の児童・生徒の居場所作りのこと。今まで文科省と厚労省がバラバラにやっていたものを合わせて、さらに国が交付税措置として、全国の公立小学校で、出来るようになるもの。単純に計算すれば、一校あたり500万円くらいの予算となる。

 

問題の所在

先ず、Aは、ノーベル賞受賞者ということから発想される野依氏のエリート主義の典型といっていいだろう。すなわち、人間の能力には適性というものがあり、努力してもできないものはできないのだから、全人口の0.5%の才能を重視したほうが国家の利益になる、という考えである。差別というより、あのヒトラーが走った優生思想の再来を想起させるお恐ろしい考えである。公教育の再生を議論する場で、このような発言が行われていることに驚きと憤りとを感じずにはいられない。
また、「塾は出来ない子が行くためには必要だ」というのは、公教育の責任は放棄しておいて、私費で学力を上げよという論理であり、後述する暗黙知論とは矛盾しないか。それとも暗黙知はエリートだけでよいとでもいうのだろうか。
さらには、塾そのものを禁止の対象とするのではなく、通塾している子供の能力が普通以上か否かによって塾を禁止するというのは、子どもたちの能力に塾の運命がかかっているという、なんともいえない不条理な構図ではないか。
次に、Bは、最近の大学生及び大学院生(つまり高等教育の場において)の学力のレベルが低い(もしくは以前と比べて低下している)ということへの苦言である。この指摘は正しいと思う。ただし、その学力低下の原因を一方的に塾通いに求めているのは解せないが、その背景にはCと関連するものがある。
最後に、Cこそが野依氏の学力論の根幹である。本当の学力はどうやって培われるのかということである。「それは、算数、数学だけやっていても力がつくものではなく、いろいろな遊びや体験を多く積むこと、さらに文化・文芸に触れることなどによって培われるものである。だから放課後子供プランは是非ともやらなければならない」ということになる。
この考えをもっと以前から強調している学者がいる。それはいまやベストセラーとなっている「国家の品格」の著者である数学者・藤原正彦氏である。ただし、彼は国語力をも重視し、昨今の小学校への英語を導入する風潮を亡国を煽るものとして批判している。

 

野依氏の塾禁止発言の背景

実は野依氏は、二年ほど前に既に塾禁止論を展開していた(我々は05年のJKKの総会においてこれを受けて議論を行っていたのである)。すなわち、
「『塾に行くことで失うものは大きい。今の子供の学習塾への依存度と功罪をどう考えているのか』去る4月27日の中央教育審議会の教育課程部会で、ノーベル賞受賞者でもある野依良治委員が、会議の終了間際のゆるんだ会議場の空気を一変さた。それを聞いた文科省幹部は『実態は後ほどデータで説明いたします』と声を上ずらせた。 井上記者が部会後にその発言の真意を野依氏に聞いたところ、『塾はけしからん。国で禁止したらいい』と厳しい言葉が飛びだした。その理由は、「知」には個人が体験から導く「暗黙知」と、言葉や図式で示されるカタログ的な「形式知」があり、塾は形式知を詰め込むだけだからである。『暗黙知なし、形式知だけの人間が大学へ行くのは問題だ』と」
(毎日新聞05年5月13日付記事)
この野依氏の問題提起は、河合塾の丹羽健夫氏が常々述べていること、すなわち、考える力のない生徒がうちの大学に入ってきて困っているという東大や京大など超一流大学の教授たちの嘆きと一致する課題でもある。
丹羽氏によると、高等学校がなぜ80年代を境にして知識注入型の受験を意識した授業をやりだしたかというと、大学進学率が急上昇して大学入試での採点が大変なことになり、大学が、手間を省くために客観テスト的な入試問題へと舵を切っていったことが大きく影響しているらしい。ときあたかもセンター入試が始まり、ますますその傾向に拍車がかかっていった。こうなるとそういう問題を解ける生徒を生産してゆくのが市場原理というもの。したがって、疑念型(ナゼ?と問う型)ではなく、肯定型(納得型or理解型)の生徒を作り出している張本人は、この現象を嘆いている大学自体だということになりはしないか、ということにもなる。
私は、暗黙知に関しては野依氏を支持する。塾といってもその中味は様々で、塾全体を一つに括ることはできない。しかし、少子化が進む中で年々競争が激しくなることから、教材会社のテキストに頼り、パソコン等の機器に頼る傾向が増えつつある。これは本来が塾の持つていた多様性が薄れ、逆に画一化してゆくことを意味する。つまり形式知にどっぷりとはまることになる。
したがって、野依氏へ反論するのであれば、塾禁止論は別として、塾がほんとうに子どもたちの持っている能力を引き出すような教育を行なっていることを証明する必要がある。いわゆる有名進学校へ合格させたからといって、いい授業をやっていることにはならないのである。なぜなら、そういう子どもたちが一流大学へ入って、教授たちを嘆かせているからである。
※「私たちは言葉にできるより多くのことを知ることができる」という有名なフレーズで引用されるところの「暗黙知」とは、経験や勘に基づく知識のことで、言葉などで表現が難しいものをいう。ハンガリーの哲学者マイケル・ポランニー(Michael Polanyi)によって1966年に提示された概念である(著書『暗黙知の次元』 を参照)。これに対置する概念は「形式知」である。
いまや暗黙知は、大学や民間の理系の研究機関のみならず、経営学の分野でも頻繁に活用されるようになってきている。

 

終わりに

教育再生会議はその位置づけが曖昧であるとの批判があるにもかかわらず、安倍内閣の目指す美しい国づくりの一環として教育問題をとりあげるという方向で動き出している。そこでは、当然に国民にインパクトのある改革案を提示したいという意向が働く。塾禁止論はそういう中で野依氏の自論が唐突に飛び出したに過ぎないといえなくもない。各委員間の合意形成がほとんどみられないからである。案の定一月に発表された中間報告には、このことに一言も触れられてはいない。
ただ、先にも述べておいたように、塾禁止論とは関係なしに、塾の教育力とは何か、塾に教育力があるのか、それらはどうやって国民を納得させられるのか等々の課題について、検討する姿勢を常に持ち続けることが必要である。特に、最近急速に広がってきた所得格差は、ひいては教育格差を、そして学力格差を招来しつつあるが、このような状況は従来の単なるニーズ論を超える課題を突きつけつつある。こういう状況の中では、どのようにしたら出来る子も出来ない子も十分に面倒を見ることができるかが重要となってくる。

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